2014年5月12日月曜日

大義の罠

地域のためにとか、日本のために、世界のためにという言葉は耳に心地よく聞こえる。まして、その活動にまい進している自分は素晴らしいと思える。世のため人のためと言うと、あまり反対もされず、無条件に素晴らしいことをしているような気になる。

学生などは理想主義の傾向が強いため、大義に弱い。現実を知る大人を、純粋で無くなった残念な人たちとまとめて取り扱う。確かにそういう人もいるだろうが、諸事情など考えないで、全部同じように、若者とそれ以外などと分けていく。

単純化すると楽だ。わかりやすいし、なんとなくそんな気がする。道のりが遠ければ遠いほど、今一生懸命やる夢があるように感じる。かえって、具体的な目標などない方がいい。小さい目標や具体的なことはおざなりにされ、大会や集会、宣言などが活動の中心となる。

そういうことも時には良いが、次第に現実に目覚め、離れていくのが関の山だ。大義は麻薬だ。誰に対しても、戦闘態勢でいられる。理解しない方が悪になる。

まじめな人間ほどそうした罠にはまりやすい。家族などの因縁の友人関係が、あなたがやめても、私はその活動をするよというほどのものであれば、それは相当に良くできた代物だ。

深ければ宗教。浅ければNPOといったところだ。大雑把な表現で申し訳ないが。

大義という大文字ではなく、小文字であらわされる日々の生活に、想いは宿るのだと思う。神は細部に宿るのだ。



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