私たちの社会は、論理的で効率を重視するものが賢いとされています。非効率なことは馬鹿げたこととして一笑に付されます。それで本当に良い社会が生まれるでしょうか?
思いを思いで返せない人たちの住む社会に住みたいでしょうか?オウムのたとえ話は人としての原点を思い出させてくれます。私たちの社会を良くする変化はオウムのような一見馬鹿げた行動からしか生まれないのではないでしょうか。
以下転載します。
http://ameblo.jp/zuiunzan/entry-11573355772.html
「オウムの恩返し」
(雑宝蔵経)
一羽のオウムがエサをさがしながら道に迷い、奥山へまぎれこみました。
日が暮れてあたりが暗くなってきて、我が家の方向さえわからず途方にくれていたとき、 奥山の鳥や獣が出てきて、
「オウム君、君は道を間違えたのだ。君のところはずいぶん遠いから、今からでは帰れな いよ。明日送っていってあげるから、今夜はボクたちのねぐらへおいでよ」
と親切に案内し、
「ここに木の実があるから、お腹いっぱい食べなさい。ここにはおいしい湧き水がある よ」
と教え、そのうえオウムが寂しくてはいけないからと皆でオウムのまわりを囲むように して寝てくれました。
オウムは安心して、ぐっすり休むことができました。
晴れた翌朝、朝日に照らされながら、オウムは奥山の鳥や獣に賑やかに送られ、山から 山を伝って、無事に古巣にもどることができました。 オウムはこの親切が嬉しくて嬉しくてなりませんでした。
それから数日たったある日、懐かしい奥山のほうを見ると、親切な鳥や獣たちの住む山のあたりから色濃い煙が立ち上っています。
驚いて飛んで行ってみると、いまや全山が火事になっているではありませんか。
すぐさまオウムは谷川に舞い降りて、全身を濡らして 飛び立ちました。
途中で水がパラパラ落ちてしまいましたので山火事の上空まできて体をふるったときは、2~3滴の水しか落ちませんでした。
でも、オウムは飛び帰り、また谷川の水で体を濡らしては飛んで行き、火事の上で身を ふって2~3滴の水を落とし、これを休みなく繰り返していました。
このとき、このありさまを谷川のほとりの木の上で見ていた他の鳥たちが、嘲笑うように言いました。
「オウム君、君のもって行くその僅か2~3滴の水であの大山火事が消えると思うのか。骨折り損のくたびれもうけとは、そういうことだ」
このときオウムは、
「私のもって行く水は僅かです。あの大火事は消えないかもしれません。でもあの火の中に、私にこのうえなく親切にし、助けてくれた友達が、いま苦しんでいるかと思うと私は止めることはできません。私は、水を運びます」
と言って、せっせと水運びをつづけました。
すると、一天にわかにかき曇り、大粒の雨がザアーッ、ザアーと降り出し、さしもの大火事もたちまち消えてしまいました。
奥山の鳥獣たちは、「オウム君のまごころが天に通じたのだろう」と、いつまでも噂しあいました……。
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